津田洋甫の写真家としての出発



 どんな生き方をしょうかと悩む年頃になって、東京美術学校の図案科か日大芸術科の映画科かどちらかにしたいと思った。私の家は、現在は財産もないが代々林業を生業とし多少は知られた資産家であった。長男の私はそれを引き継ぐ責任があったから、映画などはもっての外と入学には反対され一苦労をした。ようやく入学して演出家か脚本家かの目標を決めかねているとき、昭和18年全国の文科系大学高専の学生に学徒出陣の命が出て海軍に入隊した。有名な雨の中の分列行進の中に私もいたのだ。しかし、戦争には勝てる筈もなく日本は敗れ傷心の姿で復員した。多くの同期の戦友や私の弟までも戦死した。指導者に教えられるままに軍国主義をたたみ込まれた我々青年は、祖国を守るべく戦場に赴いた。その純粋な祖国愛も敗戦という現実に直面して、生きては戻ったが価値観は逆転、私の心は傷心虚無の世界を毎日彷徨った。そして復員先の丹波の保津川べりに寝ころんでは流れ来て流れ去る水や、流れる雲にまで生きる手だてを必死に求めていた。 そして、ようやく辿り着いたのが輪廻の世界であった。



 当時わが家は、林業と砥石の製造販売の会社を経営し私も手伝うことになった。しかし、インフレの進行と素人経営のまずさから間もなく倒産することになってしまった。資産家と言われた我家もついに没落、以前は砂糖に群がる蟻のように寄ってきた人達も潮の引く様に姿を消した。しかし、失意の中で好意を示してくれた方々もいて、人情の有難さもよくわかり、自分のこれからの人生に生かさねばと心に深く決めた。
 今後は父から独立して生活しなければならず、映画は無理だから趣味としていた写真、それもこれからは広告の時代がくると確信して広告写真に進むことにした。そして、丹波から大阪に出来た写真専門学校に1年通学した。その列車の中で写真好きの友人が出来、話は弾んだ。暫く写真館で修行の後、開店したいのだが資金不足。その時使ってくれと当時大金だった10万円の大金とライカを貸してくれたのが仲啓一君、列車で知りあっただけの友人であった。



 なんとか開店して営業を始めたが、他人からお金を貰うことに抵抗があった。今迄そんな経験が無かったからだ、今振り返れば恥ずかしい限り。しかし、広告写真はスポンサ−の意に添はねばならず、自分の好きな作品作りもしたくそれを探していたら学友に中藤譲君がいて、父上の中藤敦氏は関西写真界の名門浪華写真倶楽部の会員だという。そんな縁で入会することになった。浪倶は戦争による被害が多く戦前の隆盛期には比べようもなかったが、花和銀吾、本庄光郎、平井輝七、田中正親、中森三弥氏等がおられ中でも和銀吾氏はユニ−クな作家で思い出が多い。、戦後入会同期の会員に、誠ちゃんこと高田誠三君がいた。まだ20才を少々過ぎただけの紅顔の美少年、その上天才的な才能の持ち主だった。私も20才半ばの青年だった。以来くじけることなく無二の親友として努力し今の私達がある。



 浪倶での最初の作品は美校図案科に憧れたように造形に興味があり、ペンキのしみや、そんなアブストラクトの世界を写していたが、自分で創造できない世界は底が浅く行き詰まってしまった。私の第一の壁であった。その時「悩んでもしょうないで、山陰の雪でも写そうや」と誘ってくれたのが田畑乃夫夫、酒井平八郎君等の会員だった。それもそうだと同行して松葉カニに舌鼓をうちながら、スナップなどしていて、吹っ切れるものがあった。誠ちゃんとはこれからは内容のある写真を撮らねばと言っていて、その後は人間に照準をあてた作品作りをするようになった。しかし、人物と言っても当時東京で流行していたチョロスナではない。生活を掘り下げたものに興味があった。だが写真のモチ−フはネガティブな世界で訴求力が強いからそれに流されがちになる。東北の撮影で働く人を写すにしても、こんな服装では撮らないでくれと拒否される始末である。私は報道写真家でないから不幸の現場を撮る権利は無いし又性格的にも合わないのだ。第二の壁であった。



 そんな時、昭和36年出版社の仕事で大台ケ原を訪れ、原生林と運命の出会いとなった。そこで見た輪廻の世界。原生林の中は人間社会と同様な営みが行われ自然の摂理にしたがって生きていた。それを見て今後の進む道が閃き、私の写真家としての方針が確定した。

 私の生家が林業だった血が流れていることもあるのか、樹木は大好きである。今度こそ迷うことなくライフワ−クとして撮り続け、もう壁にも突き当たることもあるまいと確信した。そしてその時撮影した原生林の作品は昭和37年1月号アサヒカメラに新設されたアサヒカメラギャラリ−に掲載された。選者は日大恩師であった金丸重嶺先生、編集長は新任の小安正直氏でその後氏により認められ、以前から念願だったアサヒカメラ年鑑の写真家欄に掲載されることになった。



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